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実生レポートReport

実生レポート No.3

実生(みしょう)レポート No.3  
 
 

「東日本大震災の当時を振り返って」

 震災から2年6ヶ月、震災時は、三春町区長会長(三春町自主防災会連合会長)であると同時に、八島台の代表区長(八島台1区の区長/八島台自主防災会長)であった。
震災当日(3/11)を思い興すと、区の役員や組長さん、婦人会、各種団体のご協力をいただいた記憶がよみがえる。地元で暮らすお年寄り、いわゆる災害弱者と呼ばれる方々の情報は、組長さんが一番よく把握し、知っているので、皆さんの協力を願って、安否を確認してもらった。
 この日の夜は、地区の役員会を開催し、地区内の情報を共有した。震災当日は、地区内での対応で手いっぱいだった気がする。
翌日になって、町の災害対策本部に顔を出し、町内の被害状況等を確認した後、浜通りから避難してくる方を町が受け入れることに決まったと聞き、午後3時に第1回目の代表区長会(三春町自主防災会連合会会議)を開催した。受入れできる人数は、当初600人程度と聞いていたが、その日のうちに最大で2,000人を超えた。それでもまだまだ浜通りから避難してくる方はおり、(三春町長が郡山市長に直接電話し)郡山市に受入れを頼み、夜中には、町消防団が消防車両で郡山市まで案内誘導した。

 当時は、まだまだ雪が降るような寒い時期だったこともあり、町から「2時間くらいで毛布や蒲団を集めて欲しい。」と言われ、地区内の情報網で呼びかけを行った。一方、町は防災行政無線で全戸に呼びかけた。
八島台地区では、300枚の毛布を備蓄していたので、これを提供した。
また、八島台では、地区のバザーの益金を利用して、いざという時のために、業務用のガス釜2台と大鍋を購入していたこともあり、八島台集会所で炊き出しを行い、おにぎりをつくり、避難所に届けた。町内に当時9か所あった避難所のうち、2か所の避難所の朝・昼の食事をつくった。
 この炊き出しでは、八島台の婦人会だけでなく、三春地区の婦人会の献身的な協力があってこそできたことと自負している。
その後、町災害対策本部の席上で、「自分たちのことは自分たちで」と、避難所には元気な方もいるので、その方たちに食事をつくってもらったらどうか、と提案し、了解が得られ、この集会所での炊き出しは終了となった。
子どもを持つ親だけに限らず、放射線量を不安視する住民が大勢いたことから、この年の5月から6月にかけて、各地区の線量を測定して歩き、各地区線量マップをつくった。当時は2カ月に1回更新し、今年の3月まで継続して実施した。当時はまだ町にも線量計がほとんどなく、また手にも入らず、線量計は各地区交替で使った。10月ころからは、町内の各地区で通学路の除染を実施した。放射線の不安が残っている時期で、作業に当たる地区内の作業員が少ない中で、八島台では9割以上のPTAの方に参加してもらって、通学路の除染ができたことは、非常に頼もしいことであった。
 また、この年の暮れには、町と議会と自主防災会の3者で、「除染計画」もつくった。他の市町村では、除染して各家庭に穴を掘って埋めてから仮置き場をつくる計画であったが、町は、仮置き場をつくってから除染しようという計画であった。では仮置き場をどこにつくろうかとなったときに、「合併前の7地区にそれぞれつくろう、つくるにあたっては地区の自主防災会(各行政区)が中心になって候補地を決めよう。」となった。
まだ仮置き場が決まっていない地区もあるが、北部3地区の仮置き場が決まり、除染が進み始まっているのを見るにつけ、仮置き場を先に決めるという計画は功を奏したと感じている。
 今回の震災を経験して(各地区の自主防災会では、毎年地区の消防団等と合同で訓練を行ってはいるが)、自主防災会の重要さを再認識した。
 このような大きな災害が発生すると、普段自分たちの地域を昼夜問わず見守ってくれている消防団が、自分たちの地域だけを見守ることが不可能となる。
今以上に自主防災会の組織体制の強化が必要だと感じた震災だった。